イタリア食材の歴史における15のおもしろ話


※1994年11月発売の「マンボウムックス4・おいしいイタリア料理店」に掲載されたものです

500年前、イタリア史上最も馬鹿げた饗宴
1475年、イタリアはリミニの領主スフォルツァとスペイン王妃との婚礼の宴の様子。
まずは、前菜として砂糖漬けフルーツ、パイにケーキ。何たる前菜!とは思うが、なにしろ砂糖は当時の貴重品。ここは見栄の張りどころだ。続いて鹿や仔牛の丸焼き、孔雀、チーズ、またまた砂糖菓子と息つく間もない。人々は半狂乱で肉を頬張り食べ物をまき散らしながら話し続ける。小鳥のパイ、猪の丸焼き。道化が愛嬌を振りまき、演奏が始ると、それに負けじと話し声はどなり声に変わる。やがてワインの効果で、宴がいよいよ黙示録的絶頂をむかえるそのとき、突如、静寂が広間を支配した。数人の給仕の肩に、何と!たてがみも豊かなライオンが一頭、鎮座ましましている。客の多くは初めて見る。見たことがある者も、まさか食い物だったとは、と息を飲んで見守るなか、給仕の一人がおもむろにライオンの皮をめくる。すると下から出てきたのはただの仔牛の丸焼きだった。ルネッサンスからバロック、富豪たちは古代ローマの饗宴の再現を夢みたのだった。

エスプレッソ・コーヒーとは何ぞや?
時は現代、イタリア人のコーヒー研究家にある日本の商社マンがそう質問した。専門家はきっぱりと答えた。
「コーヒー豆のうまい部分だけを残らず集めたものなのです」
イタリア方式のコーヒー、エスプレッソをいれるマシンは、ひいた豆を密に詰め、そこに圧力でむりやり湯を通す。一人分はグイ飲みに半分ほど。たじたじとなる商社マンに専門科の畳みかけるような説明。要約すれば
(1)豆のうまい成分だけを抽出できるのはエスプレッソ方式だけ。
(2)抽出する際最初に出る一滴がいちばんうまく、一定量(グイ飲み半分)を超えれば余計な成分が出てまずくなる
である。
すっかり説明を終え、ご満悦の専門家は、恐縮する商社マンににこやかに一言。「日本やアメリカで飲んでるコーヒーなんて泥水のようなもんです。」

砂糖にあまかったキリスト教のはなし
16世紀、中南米に砂糖キビのプランテーションができ、甘味の主役を務めてきたハチミツにとって、砂糖が強力なライバルとなってきたころのお話。
1517年、ルターの堤題をきっかけに宗教改革が起こり、北ヨーロッパはプロテスタント色に染まる。ハチミツは蜜燭の原料でもあるため、主にカトリック系修道院でつくられていた。それが新教に鞍替えした国々では、ローマ憎けりゃ、ハチミツまでもとボイコット。
教皇も黙ってはいない。1545年、トレント公会議を皮切りに反宗教改革を展開。この席で偉いお坊さんたちは何を思ったのか、四旬節(復活祭前の4週間の節制期間)に食べてはいけない物の長々しいリストをつくりあげ、信者に言い渡した。
このリストに砂糖は入っていなかったのだ。結局、キリスト教の内輪もめが砂糖の勝利を決定。砂糖は新旧両教国でどんどん縄張りを広げ、ハチミツは日々、肩身を狭くしていった。

ポレンタは庶民の強い見方
北イタリアの名物ポレンタは、トウモロコシの粉を水で練ってつくる。今でこそ一流レストランでも供されるが、今世紀前半までは貧しい庶民の日常食だった。値段が小麦の半分だったので、農民たちは小麦を売り、トウモロコシを買って細々と生き延びた
当時の典型的な庶民の食事風景。腹をすかせた家族が待つテーブルに、マンマができたてのポレンタを鍋ごとひっくり返し、ぶちまける。こんもり山になったポレンタを、大きな木のしゃもじでいっぱいに広げる。マンマの合図とともに四方から、一斉に飛びつく。粗びきソーセージ入りトマトソースがかけられたときは真剣勝負だ。一本しかないソーセージは、ポレンタの中央。周りからヨーイ・ドンで食べ始め、最初に到達した者が、それを獲得した。

ジャガイモか、死か、それが問題だ!
17世紀のヨーロッパを一つの迷信が覆った。ジャガイモは魔女の食べ物だというのだ。ブルゴーニュではハンセン病、スイスでは腺病の元とされた。ドイツにも迷信は広がり、18世紀末までジャガイモを食べるのは、軍人か囚人くらいのものだった。1774年、プロイセンが飢餓に襲われたとき、国王フリードリッヒ2世は、国民を救おうと荷車にジャガイモを積んで差しむけたが、誰も近づこうとさへしない。呪われた野菜よりも餓死を選んだのだ。
さて、膨大な美術品を持ち去ったことで今もイタリア人に恨まれるナポレオン。だが、その代わりに彼が残していったのが、ジャガイモ。1795年、その軍がイタリアに攻め込んだとき、大量に運び込んだジャガイモが、袋からこぼれ落ち、芽を出し、みるみる増えていった。ジャガイモのだんごのようなパスタ、ニョッキがこうして口にできるのも、そもそもナポレオンのおかでだったというわけだ。

手づかみパスタはナポリのシンボル
男たちが道端の屋台に駆け寄っていく。わずかな金と引き換えに、湯気の立つスパゲティを一皿。片手に皿、もう片方の手でスパゲティをがばっとつかみ、高く持ち上げる。だらりとぶら下がったスパゲティを、器用に口の中に垂らしていく。ほんの二つかみほどで皿の中は空っぽになってしまう。5分とかからない。
19世紀、ナポリの街角の光景である。別にフォークがなかったわけではない。すでにナポリの王宮では、スパゲティ用の先が4つに分かれた(それまでは3つだった)が発明されてもいる。ただ、誰一人としてそんなものを使おうと思わなかっただけ。お腹が空いて仕方がないときに、わざわざフォークにぐるぐる巻つけて食べようという発想がなかった。
ナポリ人はイタリア人である前にナポリ人だ。貧乏ながらもいつも陽気で騒がしく、バイタリティにあふれるナポリ庶民の気質が、このノスタルジックなスパゲティの手づかみ食いに集約されている。

スパゲティはどこから来たのか?
巷の噂では、スパゲティは、あのマルコ・ポーロが初めてイタリアへ持ち込んだことになっている。13世紀に中国へ旅した彼が、麺を食べていたく感激し、故郷ヴェネツィアへ持ち帰ったのだそうだ。説得力もロマンもある話だが、実はこの話、まったくの嘘。
スパゲティはマルコ・ポーロの生まれるずっと前からこの国にあった。いちばん古い文献は、1154年にアラブ人が書き残したもので「シチリア島のトゥラビアでは、紐のような変わった食べ物が小麦粉で作られている」とある。どうやらイタリアのスパゲティはシチリア島が起源らしい。ならb、それは突如、この島で発明されたのか?答えは残念ながら否。北アフリカ(原料、デュラム小麦の古くからの産地)か中東の遊牧民が、長いキャラバンの保存食として考えだしたのだ。それが、気候も似ていれば、交易も盛んだったシチリアに早くに伝わった。

イタリアがトマト色に染まる日
トマトのないイタリアなんて、醤油を欠いた日本のようなもの。しかし、トマトがイタリア料理の主役となるまでには、長い道のりがあった。
1492年、コロンブスのアメリカ発見後、次の世紀の初めにトマトはメキシコから渡ってきた。当地では、すでに食べ方も確立されており、若い青トマトは生で、熟したものはカボチャや肉、魚と煮込んでいた。市場には、トウガラシを加えて煮込んだものまで売られていた。ところが、不思議なことにヨーロッパでは食材ではなく、観賞用植物として貴族たちに普及した。食に不自由しない彼らは、馴染みある野菜と駆けはなれた色(黄や赤)のトマトを結局、口にしなかった。半世紀後、一人の勇気ある農民が、いためて塩を振って食べてみた。やがて宮廷でも食されたのは18世紀末のこと。




御連絡、お問い合わせ

執筆、翻訳のページへ

イタリア企画ルーム表紙へ