序文

 ヴェッレートゥリ(※地名)の我が家には、消費経済システムから逃れた、巨大な冷蔵庫がある。有名家電メーカーのものじゃない。木製の白い壮大な冷蔵庫は大きな台所の壁一面を占領している。各種腸詰め、チーズ、仔牛肉、4つにさばかれピカピカのフックに吊るされた牛など、4つの窓から中を覗くと威厳に満ちた景観を満喫できる。
 この冷蔵庫は我が家の礼拝堂だ。時として私はこの物神『ヒューマン・アドヴェンチャーのトーテム』の前に朝から膝ま付いて妻を驚かせる。私はそこでじっとしている。集中して見つめ続ける。昼食のためのインスピレーションが到来するのをを待ちながら・・・。
 これは間違いなくパラドックスな場面である。平凡な食卓の喜び、要するに生活への私の執着に禁欲的な印象を与える。しかし結局のところ、私はかまどの殉教者と見なされるべき人間だろう。たとえ普段は、真っ赤に焼けた炭火の上で自分自身を炙ることは好まず、乳飲み牛の肉を細心の注意を払いながら焼くとしても。
私の血管には料理が流れている。もちろん血液は赤血球と白血球を含んでいるだろう。しかし私の場合には、あなどれない量のトマトソースも含まれている。私はかまどの悪癖に染まっている。スパゲティ病にかかっている。私にとってキッチンは最もショッキングな部屋だ。私以上にクワジモド(※ノーベル賞詩人)のエルメティズモを理解している者はない。小さな青白いオリーブ1つのために、私は文字通り錯乱することができる。私はヨーロッパ最良のレストラン全ての、勝手口とコックを知っている。役者の仕事?時々それを趣味でやっているような気がする。でも食べることは違う。私は生きるために食べる。そして鍋の前に立つと、生きていることを感じる。沸き立つ油の音は、私の耳には音楽に聞こえ、ミートソースの香りなんぞは、髭剃り後に使いたいくらいだ。1皿の絡み合ったフェットゥチーネや楕円形のローストは生き生きとした彫刻、ムーアにだって価する。夕食の準備をした後で、私の最大の喜びは、会食する友人達の称賛を受けることだ。結局この中で、以前私が劇場で常に体験し、現在映画の仕事では欠けているものを、繰り返し得ているだけだろう。それは観衆とのダイレクトな触れ合い。
 私と料理の愛情関係には、仲介者もなければ規則もない。私は舞台の創造者であり、執行者でもある。生命を持たないレシピの言葉を、味わい深く色付いた現実に変える。食材を調和させ、バランスをとりながら。正しく火が通ったポイントを感情で捕え、本能の命ずるままにフライドポテトを揚げ、オイルでにんにくを炒めながら恍惚となる。1つ1つのソースの喜びに浸り、香りの中に自分を失い、湯気の立つマカロニの上で生贄となった、摘んだばかりのバジリコの葉を愛する。
 私の料理は芸術だ。料理を生む苦しみを知っている。だからこそ食卓を取り囲む雰囲気と演出、環境や思い出から湧き出る心地好い感情の流れに、欠くことのできない重要性を認める。それらは目の前にある1皿に強く作用し、新しい意味を付け加え、失われた意味を取り戻す。全ての物がプルーストに、遠い想い出や埋もれてしまった想い出を囁きかけたように、私にはそれぞれの料理が、失った過去を思い出させ、再発見させてくれる。例えば茹でた雌鳥は、私を祖母のもと、日曜日のクレモーナ(※北イタリアの都市)へと連れ帰り、キイチゴは両親と山で過ごした貴重なバカンスを思い出させる。
 『大食い』、『食道楽』、これらはマゾヒスティックで懲罰好きな道徳観により、愚か者の烙印を押された。全ての人間は選択の自由を持つ。フォアグラのように膨らんで死ぬ自由や、セックスに体力を使い果たして死ぬ自由でさえも。この2つの、偉大で健康的で物質主義的な情熱を隠すのはもうやめよう。余りにも長い間ゲットーに閉じ込められてきた。古代ローマとルネッサンスの精神を偉大なものとした、エピクロス(※ギリシャの哲学者)の生命と喜びの哲学に再び光を当てよう。幾世紀にも渡り絶えたことのない、よだれと精液とうんこの流れに合流しよう。食べ物について言えば、缶詰と冷凍食品とフリーズドライに占領され、常に崩壊に向かっているものを取り戻そう。
昔々、おばあさんとお母さんと田舎と畑があったとさ。
もう1度創りだそう。それは私達しだいだ。



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