第6章 1941年、海軍で泳げることは後回し

 奇跡のようだ。あの日ポー川で私が溺れ死ななかったのは。小舟から、私よりも泳げない同僚が慌てふためきながらも投げたオールに、私はどうにかしがみつくことができた。口の中はすでに濁った水で溢れ、最後の「助けてくれー」を喉から絞り出した瞬間だった。
 毎週土曜日に行われた、ファシスト青年隊の軍事教練で着ける必要があったゲートルを、私の足は我慢できなかった。だから海軍に決めた。海軍の教練ではゲートルの代わりに、裾が広がり、ゆったりしたズボンが支給された。そして1年早く徴兵されることになっていたが、私はそれを知らなかった。戦争の勃発はまだ準備のできていない、泳げない私を大いにおびやかした。
 クレモーナの駅で母は大泣きに泣いていた。その彼女に、列車に乗った私は窓から夢中でしがみついた。ポー川でオールにしがみついたように。
 私が送られたラ・スペーツィアの海軍司令部では速記タイピストを探していた。
 兵舎の中庭に付けられたスピーカーが募集を告げる。司令部は船ではなく地上の建物であり、私はタイプライターをたとえ見たことがあるだけにしろ知っていた。素早く、誰よりも早く、タイピストを探している隊長のもとに私は参上した。
 「おまえは速記タイピストじゃないだろう!!」、最初の手紙の最初の文を私に読み上げた後で隊長は怒鳴った。「私は惨めなタイピストでさえありません。でも泳げないんです!海が死ぬほど怖いんです!!」。
 こうして私はデ・ラッラ司令官の秘書官の秘書となり、ある下士官に直属することになった。私の上官となったエミリア(※イタリア中部の地方)訛りの男は、初日から私を『キンタマ』と呼んだ。このすてきなあだ名は、当時、下士官の間ではかなり頻繁に使われていた。
 朝から晩までタイプライターに取り付き、将校、下士官、海兵などの友人、親戚、未亡人、妻、母親へ長い手紙を打ち続けた。それらの人々から寄せられた要請(下船、勤務地の移動、除隊、長期の療養休暇、etc )に対する、司令官の返事では『誠に遺憾ながら・・・』が繰り返された。
 その内私はボローニャ生まれの下士官が、どうして私を『キンタマ』と呼ぶのかを突き止めた。なぜなら彼は司令官に同じあだ名で呼ばれていた。毎朝私の上官は頭を垂れ、短い腕に紙の束を抱え、怒りと恥ずかしさで真っ赤になった顔をしかめて司令官の部屋から出てくる。そして事務所に入り、背中にドアを叩きつけた瞬間、我慢していた罵りが口から溢れ出す。机の向こうにあるソファーにへたり込み、赤鉛筆ですべての手紙に描かれた削除の印にのろのろと目を通していく。嘲るように紙面を埋める赤い下線や紙一杯に大きく描かれたバツ印。時々机から目を上げて私を眺め「キンタマ・・・」とつぶやく。それは私に言っていたのか、又は司令官に、それとも自分自身に向けられていたのであろうか?そして肩に埋もれた大きな頭を掻きむしりながら、呪われた手紙の束の修正にとりかかった。時には徹夜で修正した手紙を3回も4回も私に打ち直させた。やっと見つけた美辞麗句が、文法や構成の間違いを隠してくれることを願いながら。私自身、高卒という彼より高い学歴をもって修正を加えていた。しかしそれも叉、小学校5年で止っている彼の知識に混乱を招いただけだった。
 事務所には他に3人の『戦況』を担当する下士官がおり、その内一人は『沈没状況』に携わっていた。彼の仕事は赤い真っ直ぐな線を船の断面図に引くことだった。イタリアの全ての戦艦が描かれている巨大な紙を広げ、沈没した艦の名前と日時を電文で確認し、絵の上に正確無比な横線を引いた。彼は何よりも正確な赤線を引くことにこだわっていた。しかし、もし彼が少しでも戦況を考えたなら赤い線は曲がっていただろう。
 ある日私の上官は私達の内誰かがケジラミを持っていると判断し、この内気な虫が好んで隠れる毛深い部分をそるように命令した。1週間後、唯一人掻きむしり続けていたのはエミリア訛りの下士官、彼だけであった。片手を腿の付け根に、もう片方をかぼちゃ頭に据えて、呪われた手紙の下書きを前に何時間も。その姿は私を大いに心配させた。ある午後、彼の不在を利用して、私は手紙の下書きを一人で仕上げた。事務所に戻った彼は、司令官のサインを貰うために提出すべき1ダース程の手紙が、見事にタイプライターで打たれ出来上がっているのを発見した。彼は大いに当惑した。はたしてそのまま提出すべきか。文面は彼にも完璧に見えたが、間違いを見逃しているのかもしれないという不安に加えて、盲目に私を信用しなくてはならない悔しさが彼を躊躇させた。そして死刑場に向かうがごとくに、短い腕に紙の束を抱え、下士官用の堅いカラーに2重顎を乗せ、司令官の部屋に入っていった。
 部屋から出てきた下士官の紅潮した頬と口の回りのしわに隠された微笑みは、その日始めて司令官が白い手紙に残酷な赤い傷を加えなかったことを物語っていた。彼は私に特権を与えた。その日より、昼の12時から外出できるようになった(他の兵隊は18時からだった)。
 動員課から回ってきた伝達を読んで微笑んだのは司令官だけだった。それは北アフリカへ向かう戦艦に搭乗する400人の名簿であり、私の氏名も含まれていた。私を自分専用の『便利な手紙書き』としていた下士官は青くなって震えた。そして名簿を掴むと稲妻のように事務所から姿を消し、午後遅くになってやっと戻ってきた。後ろ手にドアを閉めながら息を弾ませていた彼は慈父の眼差しで私を見つめ、名簿を置きながら言った「俺がお前のために何をしたか見てみろ、キンタマ!」。アフリカに向かう運命を担った400人の中から私の名前は消えていた。司令官の赤鉛筆で削除されて。
 爆撃!1か月後、沈没を担当する下士官は私をアフリカへ運ぶはずだった船の図に赤鉛筆で横線を引いた。行方不明380人。ポー川での不幸な経験を持つ私が生存者20人の中に入る可能性は当然なかっただろう。
 その後しばらくの間、私はエミリア訛りの上官を愛した。あー!しかし、当時すでに歌手として名を売り、『ミシシッピーの誇り高きオンブレッタ(※曲名)』で知られたルチオ・アルデンツィが、司令部に新米として送られてきた。彼は兵士に捧げるバラエティー・ショーを企画、実現し、劇場を利用できることになり、私は司会者として契約を結んだ。
 彼はブーイングを、私は喝采を浴びた。その後に続いたショーの中で、私の成功をじゃましたのは2回の爆撃ばかりであった。海兵下士官トニャッツィはアーチストになろうとしていた。エミリア訛りの上官は私を憎むと共に『キンタマ・アーチスト』と呼び始めた。司令官は私が稽古に行けるように1時間早く手紙にサインし、司令部は好きな時間に兵舎へ戻れるパスを発行してくれた。でも私はビアンキーナと知り合って以後、全く兵舎に戻らなくなってしまった。
 兵隊相手の洗濯屋で働いていたビアンキーナだが、私達のショーでは「あら、靴の中に小石がはいってるわー」と歌っていた。彼女に惚れた。16歳、スペイン風の顔と真白な歯、抵抗しがたい胸を持っていた。彼女が「イエス」と言った日から、私は司令部で最もエレガントな兵隊となる。
 兵舎を出ると道路を横切り、歩道から3段下りてビアンキーナの店に消えて行く。手にはいつも包みを2つ下げていた。1つは汚れた軍服、もう一つにはステーキ用の肉が入っていた。ドアの蔭で私が門から出てくるのを見ていた彼女は私にとびつき、兵隊の服が山と積まれている店の裏へ引っ張っていった。そして私に唇と胸と、洗ってアイロンをかけたばかりの制服を提供してくれる。その代わりに私は、二十歳の情熱と汚れた制服とステーキ用の牛肉を捧げた。兵舎の厨房にも私のファンはいた。私はアーチストであり、ラ・スペーツィアで1番奇麗な彼女を持っていた!
 病院でショーを見せるために、私をローマへ移動させる申請がなされた。すでに私を死ぬほど憎んでおり、できることならアフリカ行きの船に乗せたいと思っていたエミリア訛りの下士官は、全力を上げて移動に反対した。こうして憎しみは相互感情となった。彼は私を7日間監獄に送ったが、私はそこで捕虜を慰めるショーを開いてやった。
 爆撃機が私達の確執に終止符を打つ。絨毯爆撃が司令部を司令官と共に吹き飛ばした。移動命令が下り、エミリア訛りの下士官はヴィアレッジョ(※イタリア北西部の都市)に送られ、手紙の返事を司令官のために書くこともなくなった。やっと彼は私を必要とせずにすむ。そして私はローマへ送られ、9月8日までそこにいることになる。

軍隊風カンノリッキ

 兵舎で出されるミネストローネにいつも入っていた、筋の付いた短いパスタを私は『軍隊風カンノリッキ』と呼んでいる。レシピはとても簡単。ポイントはコップを1つ用意すること。なぜなら分量の基本はまさにそのコップだから。

いつものように6人分の材料
カンノリッキ叉はディタリーニ叉はディターリ 500グラム
トマト・ソース コップ半分
パルメザンチーズ コップ1杯
ラエータ(※ラツィオ州)産の黒オリーブ コップ1杯
ロースハム コップ1杯
マヨネーズ コップ半分
生クリーム コップ半分
もし必要なら塩

 『ロースハム コップ1杯』と書いた私をさぞひょうきん者だと思うだろう。しかし、ハムを細く細く千切りにし、コップで計ったならば、あなたはこのシステムの実用性に気付くはず。
 パスタを茹でるための湯が沸くのを待つ間、大きなボールにマヨネーズと生クリーム、トマトソースを入れよう。私が『マヨネーズ』、『トマトソース』と言うからには、当然のことながらチューブに入った出来合いを指している訳ではない。しかし、『レシピはとても簡単』と書いてしまった私が、その場でおいしいマヨネーズとトマトソースを作れなどと強要もできない。仕方がない、チューブに屈服して先に進むことにする。種を取り除き、刻んだ黒オリーブをボールに加え、最後にコップ1杯のハムを加える。全部を良く混ぜるとサーモン色のソースになる。黒くなり過ぎる場合は生クリームが足りない証拠。色が薄過ぎる時にはトマトソースを足そう。コップ1杯のパルメザンチーズを加えてさらに混ぜる。
 さぁ、カンノリッキが茹であがった。ざるに上げてソースで和え、熱い内に素早く食べよう。



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