第10章 1951年、センピョーネ通りに誰かが住んでいる
「学園都市に住むんだから!」
父は私を元気付けるために、明るい調子で言った。
「何が学園都市だよ。ランブラーテ(※ミラノ郊外)じゃないか。」
彼の顔を見ずに私は答えた。視線は窓の外、綿のように真白な煙を吐きながら通り過ぎる汽車を見ていた。
「今のところはこれで満足しよう。」
父が付け加える。
「もしお前がテレビに出るようになったら、センピオーネ通り(※金持ちが多く住むミラノの中心街)にもっと立派な家を買えるさ。」。
3部屋に風呂兼トイレが2つ付いた(しかし風呂の窓の外は階段だった)マンションは、まるで屋根付き特別席のように郊外のサッカーグランドに面しており、その向こうには線路の走る土手があった。その日以後、長い列車がグランドの真横に停車しているのを、幾度となく窓から見る。私は考えたものだ。ランブラーテ駅から出発したばかりの列車が、どうしてあそこに停車する必要があったのか?恐らく操縦手が試合を少し見たかったのだろう。以前に1度、港近くのかわいいスタジアムの階段席にいた時、すぐ横に船が1槽じっと停泊しているのを見たことがある。つまるところ、イタリアでサッカーは全てを止めることができる。
要するに私の家は『学園都市』というよりも『郊外のマンション』であった。干からびたブルジョアの父だけがその事実を認めず、反対説を唱え続けていた。私にとってその家は、イタリア中に散らばる『芸人のペンション』を渡り歩く、10年近いドサ回り後に始めて持ったものとして意味を持つだけだった。
戦後間もない頃ナポリで、幸運にもフォルチェッラ通りにかわいい宿を見つけた。指示された部屋に行くと、ドアに『特別室』と書いてある。しかしその部屋で『特別』だったのは、1面の壁紙がほとんど剥がれ、ゴキブリと蜘蛛がはい回る不気味な旗のように見えたことくらいだ。私の小さな無念の旗印。
ローマのあるペンションでラウラ・マジエーロといっしょに、1人前の白いリゾットだけでクリスマスを過ごしたこともあった。
パレルモで泊った夜、私の部屋に警察が踏み込んだ。ベッドには、当時私が率いていた劇団『バタクラン』の踊り子、ナポリ生まれ16歳の少女が一緒に寝ていた。母親が必死の思いで私に預けた娘だった。
白い馬に牽かれた車に乗って警察まで行った。前方には他に4台の馬車が先行しており、宿屋の部屋で私と同じようにおどかされた俳優、女優、ダンサーのカップルが乗っていた。事件の発端は、劇団の女の子に夜を共に過ごすことを拒否されたスケベなパレルモ男達が、私達の奇妙な宿泊状況を警察に耳打ちしたことにある。女の子達はすぐに医者の検査を受けさせられた。そして男どもはそれぞれの内縁の女性と結婚する誓約書を書くまでは、釈放してもらえなかった。ベッドの中で女の子2人と見つかったある俳優は、両方と結婚する約束をさせられた。
劇団をトリノへ連れていく度に、私は『出歯亀』の本性を発揮した。なぜなら宿で私はいつも中庭に面した部屋を取り(外に面した部屋の方が高かった)、ブラインドの隙間から向かい側を見ると、常に1ダースほどの愛しあう男女が見えた。
現在やっと家の窓は健康的なサッカーグランドに面しており、私は鉄道の通る土手の風景を楽しむこともできる。欠けているのは家具とかまどの天使だけだった。
ずいぶん前から車の中や悲しい宿屋でばかり愛し合っている。そしてこの『ドサ回りの愛』は、とても美しいイギリス女性には似合わなかった。この娘とはロンドンで知り合い、イタリアへ付いて来るように説き伏せた。私は彼女の尖った鼻に惚れ、恐ろしく長い足に錯乱した。そしてすでに妊娠していた。こうして彼女は100パーセントの権利を持って、私の人生で初の市民的な住みかに入り込んだ。
チンザノが入っていた木箱の上に鎮座する緑の電話は舞台小道具の払い下げ。廊下には、私が舞台を横切るのに使ったベスパを飾り、壁には風景画の代わりに微笑む私の大きな写真が1枚。その下に『みんなのためのパラダイス』と書いてある。私が作った風刺劇のポスターで、主演女優はイタリア人の娘で2人のアルゼンチン人の母親アルバ・レジーナだった。巨大な白鳥に裸でまたがり「あなたが君は僕のものだと言う時、私はあなたのものと感じるのー」と歌ったリア・コルテーゼもいた。マットレスを直接床に置き、その横には中国風タペットを2枚敷いた。
舞台で初めてやった広告の収入で台所の家具を買い、テレビコマーシャルの初契約は、サロンの真ん中まで届く大きな台に乗った24インチのテレビとステレオを私に与えた。
パットは私をダンスのリズムで振り回し、長い足を高々と上げながら部屋を横切った。クッキャイーノ(※小さなスプーン)を『コッカイーナ(※コカイン)』と呼び、何を見ても『シュバラシー』と言った。彼女の助けを借りて、2枚のマットレスの下にベッドを押し込んだ日から、子供部屋の壁飾りとなる中国製のタペットも、彼女にとっては『シュバラシー』。素敵なブリアンツァ(※ミラノ北部)旅行の中で唯一の誤り、買わなきゃよかった水滴形ランプも『シュバラシー』と決め付けた。イギリスの旗を描いたエプロンを着けると私自身も『シュバラシー』くなり、天の光に打たれ、人生で初めて偉大な料理を創造した。巨大な鶏の串焼き。巨大になった理由は串焼きにしたのがスープ用のつめ鶏だったから。しかしまったく『シュバラシー』つめ鶏だった。
揺りかごに布の人形を入れて、ほら、子供部屋のできあがり。青く塗られた大きな箪笥の中にしつらえた。一方、モケットとベッドカバーと整理箪笥は、電話と調和させるため全て緑色にした。当然これもまた『シュバラシー』だった。
時と共にパットの足は堂々たる太さになっていき、バレリーナの旋回は軽さを失っていった。私が初めてローストを焦がした時のコメントは「ポルカ ミゼーリア(※直訳すると貧乏豚、下品に嘆く時の言葉)」であり、彼女が風呂で音楽を聞こうとして電気がショートした時には「ファック」と叫んだ。
イギリス娘の機嫌は家のドアにたどり着いたとたんに分かる。ベートーベンかバッハが流れていれば最悪、グレンミラーはまだましだった。
父はドナガーニ広場へ引っ越していった。郊外に買った私の2軒目のマンションへ。すでに私は10のテレビ番組と契約していたにもかかわらず、センピオーネ通りの素敵な家は夢のままだった。
父から、結婚の許可を求める長い手紙が届き、私はそれを許した。
そうする内にもパットは全身太っていった。足ばかりではなく手も太くなり、こうして毎晩寝る前に結婚指輪を外す苦労もなくなった。ある時彼女は台所へ立つ決心を固め、じゃがいものピューレに挑戦した。彼女のピューレは、茹でた後おしりで潰したじゃがいも2つから構成された。私がしばらく家に帰らない時に彼女が好んだ食事は、鰯の缶詰にパンを浸して食べるというものだった。しかし缶を開けずに!!缶切りをなくしたのか、節約したかったのか、それとも彼女がきちがいだったのか、私にはついに分からなかった。その内『シュバラシー』も少しずつ減っていった。ある日パットはアンテナの方向を直すために建物の屋根へ登った。工員の着る青いつなぎを身に付けた彼女は、さらに巨大に見えた。怯えた私は、イギリスの旗を描いたエプロンを風になびかせながら、ベランダから見上げていた。
ある日、ブルドーザーがグランドを掘り返すのを窓から見た。サッカー場に新しい芝生を植えるのかと思っていた。翌日、クレーンの先が家に飛び込む。幸運にも窓からだったので、壊れたのはガラスだけだった。
息子が生まれた。まさにその日、エディソンの新社屋である高いビルの屋上に3色旗が立てられた。リッキーは汽車を見ることも、サッカーの試合を見ることもできなくなった。
私達は引っ越した。
現在私はローマ、父はヴァレーゼ、息子はイギリスに、そしてパットはセンピョーネ通りに住んでいる。
茹で肉のイギリス風
とても簡単な料理。しかしただの茹で肉ではない。本家本元のイギリス風茹で肉だ。イギリスに行った時、パットの家で何度この料理を食べたことか。それをあなたにも伝えよう。あなたもイギリス料理で最もポピュラーな1皿が作れるように。
材料
2 pounds corned brisket of beef
牛の腿肉 1キロ
half pound salt pork
塩漬け豚肉 250グラム
2 bay leaves
ローリエ 2枚
4 peppercorns
胡椒 4粒
half boiling chickin
雌鳥 半羽
4 large carrots, scraped
掃除した大きな人参 4本
5 large potatoes, peeled
皮を剥いた大きなじゃがいも 5個
2 midium turnips, peeled
皮を剥いた中くらいのカブ 2個
one medium head cabbage, quarted
四つ割りにした中くらいのキャベツ 1個
horse radish sauce
ホースラディッシュ(洋わさび)のソース
牛肉を湿った布で拭き、糸で縛って大きな鍋に入れる。肉がかぶるくらい水を入れ、火にかける。沸騰したら湯を捨て、肉を流水で洗う。もう1度同じ事を繰り返す。3度目には、沸騰した湯を肉がかぶるくらいまで入れ、塩漬け豚肉、ローリエ、胡椒を加える。肉が柔らかくなるまで3〜4時間煮込む。煮始めてから1時間たったところで雌鳥を加える。
肉を取り出し、スープに浮いた脂を取り除く。人参、玉葱、じゃがいも、カブを入れ20分間煮る。4つに切ったキャベツを加えて、全部の野菜に火が通るまで煮続ける。
肉に野菜を添えて、熱々をサービスする。ホースラディッシュのソースを添えること。新情報にうるさい人には、グリーンソースも添えて出そう。
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