第1章 1930年、スープ叔母さん

 私が生まれて3日目だったそうな。ミラン叔父さんは私の小さな男性シンボルに、赤と黒(※サッカーチームA.C.ミランのチームカラー)のリボンを結んだ。私はよく自問したものだ・・・もし男ではなく女の子が生まれていたら、どうしたことだろうと。
ミラン叔父さんとは血の繋がりはなく、単に父の仕事仲間で、名付け親として私の洗礼に立ち会っただけだ。普通イタリアでは両親が家族以外の者に親愛の情を示そうと企む時、子供達に『おじさん』と呼ぶことを強要する。ミラン叔父さんの場合は父の収入に影響を与える人だった。
 本当の叔父、叔母だけですでに20人ほどもいた。半分は母方でもう半分は父方、それに加えて血の繋がらない叔父さん達。しかしミラン叔父さんは私にとって誰よりも叔父らしかった。なぜならサッカーのゲームに連れて行ってくれたし、選手のサインが入ったハガキを送ってくれた。
 母方を紹介すると人形叔母さん、石炭叔父さん、会計係叔父さんなどで父方には金持ち叔父さん、プラスチック叔父さん、発明叔父さん、スープ叔母さん、織物叔父さん、美人叔母さん、貧乏叔父さん、その他定義が曖昧な叔父、叔母がいた。
 全てのあだ名はミラン叔父さんが付けた。ミラン叔父さんは、

a) 当然のことながらサン・シーロ(※A.C.ミランのホームグランドがある地区)に住んでいた。
b) 彼の家は全ての床に、赤と黒のストライプの入った絨毯が敷き詰められていた。
c) 同じ色柄のスリッパさえ履いていた。

これほどまでに『ミラン』であった。全ての部屋の壁は、叔父さんと握手する選手の写真で文字通り埋め尽くされていた。スタメン選手の写真では、5人のフォワードは立ったまま、3人のハーフバックは中腰に屈み、2人のフルバックは地面に座り、ゴールキーパーはボールを押し潰して寝ころんでいる。素敵な世界チャンピオン、ウルグアイ・チームの写真もあった。ピオラの荒技オーバーヘッドキック、メアッツァの筋引く強烈なヘディング、白い鉢巻きをしたバルトリーニ、etc。A.C.ミランのチーム写真は1910年のものから、11年、12年、13年、14年、(第1次世界大戦による中断)、19年、20年、21年、22年、23年、24年、25年・・・1930年くらいまであった。
 日曜日、もしミランが勝てば彼は祝杯に酔っぱらい、負けると夕食も取らず8時にベッドへついた。ミラノのマルコーニ通りにあった私達が住んでいた建物に、当時は宿敵インテールのセンターハーフ、後に魔術師と呼ばれるコーチとなり、戦後は選手仲介人となったヴィアーニが引っ越してきたと知った時、叔父さんは父を説き伏せて引越を決意させた。父にはサッカーなどどうでもよかったが、叔父さんとの取り引き関係がまずくなるのを恐れた。家族はポルタ・マジェンタへ引っ越し、サン・シーロに少し近くなり、こうして私はインテールの人さらいから逃れることができた。
 あだ名マニアの叔父さんが何ゆえ父のことを『チェオリン』、私を『ナイト』、赤と黒のリボンで永遠の洗礼を受けた私の男性シンボルを『不吉なもの』と呼んでいたのか、尋ねたこともなかった。 私をゲームへ連れて行く前に、叔父さんは私のズボンのポケットに穴を開け、木でできた赤と黒の小悪魔(※A.C.ミランのマスコット)を突っ込んだ。私はポケットに手を入れ、『不吉なもの』に乗せた小悪魔を支えていなければならなかった。ミランがゴールを決めた時にだけそれを取り出し、歓喜の証として振り回すことが許された。
 ミランが5対0で負けたある日曜日。夕食を取らずにベッドについた叔父さんは、心筋梗塞で死んでしまった。機知に富んだ遺言状の中で、彼は私と他の叔父達に『ミランファン精神』を遺産として残した。この叔父達のほとんどは、すでに彼の近くへと去って行った。金持ち叔父さん・・・『金に恵まれる者は健康に恵まれない』。そして発明家叔父さんも。ある時彼は封筒を破らずに開封する仕組みを発明した。ミシンで木綿糸を封筒の一辺に縫い付け、糸の端を出しておく。しかしその後発明を諦め、エジソン(※企業)に就職した。貧乏叔父さんは車に轢かれて死んだ。『進歩』は貧乏人滅亡を謀り、進歩の代名詞がそれを実行した。
 他より長生きする運命にあるプラスチック叔父さんは今だに健在だ。スープ叔母さんも『野菜(※イタリアでは、ぼんやり暮らすという意味を持つ)スープの叔母さん』とでもいうように生きている。
 スープ叔母さんというあだ名は、ある親族会議の中で付けられた。毎年クリスマスのディナーには、父方の兄弟、姉妹、その女房、旦那が集まることになっていた。そして緊急事態には、祝日以外でも親族会議が開かれた。
 父が1年間に渡り、重病で寝込んだことがある。もちろん親族会議の対象となり、金持ち叔父さんを筆頭に貧乏叔父さんまでが集まった。援助計画と数々の対策が練られ、その内の1つ、見事に『家事ー経済的』だったのが、1本の骨から如何にして食事を作り出すかを母に教えることであった。まさにスープ叔母さんがその役目を引き受けた。
「牛の骨を1本買いな。立派なやつをね。筋と肉がいっぱいへばりついてるのを選ぶんだよ。その骨からは立派なスープが取れる。もし人参と何かの葉っぱとラードを加えたら、もう言うことなしだね。煮えたら野菜はスープといっしょに食べていいよ。筋は取って味付けしたら、栄養たっぷりさ。こそげ落とした肉からは肉団子が作れる。骨1本であんたも息子も3日間ばっちりさ!」。この時から彼女は私にとってスープ叔母さんとなった。
 それ以後、日曜日のサッカースタジアム、『不吉なもの』に乗せた木の小悪魔と、ゴールの度にそれをつかみ出して喚きながら振り回すミラン叔父さんは、私にとって肉団子からの逃避を意味するようになった。


肉団子のレシピ

大前提として、私にとって肉団子を作るということは、全ての余りものを利用するということだ。茹で肉、ロースト、雌鳥、煮込み、etc。私は牛乳に浸したパンを加えることにしている。聞くところによると、牛乳に浸したパンと共に、茹でたじゃがいもも加えていたそうな。その出来上がりはセンセーショナルだ。細かくたたいた余り肉にサラミやハムの余り、叉は茹でた粗挽きソーセージの余りを加える。そして、みじん切りにした余ったにんにく1かけらと、たっぷりのパセリ(余ったもの)。
もし、たまたま全てが余ってなければ、しょうがない、その内どれかは我慢して買ってもいいだろう。しかし残念だ。なぜなら肉団子は余りもので作ったほうが美味い。
パセリが余ってない時は、バジリコだって使えることを覚えておこう。
ナツメグを少し入れるのを忘れないように。でも、ほんの少しでいい。そして全卵を1個(20個以上の肉団子になるときは2個)。大匙2杯のパルメザンチーズ。ペコリーノチーズ(※羊の乳から作るチーズ)が好きな人はそれでもいい。塩、胡椒、当然のことながら適量。
上記の全てを、細心の注意をはらって手でこね、クルミ大に丸めて小麦粉をまぶし、指で平たく潰す。こうしてできた小宇宙を、塩、胡椒して溶いた卵に潜らせる。そしてパン粉をまぶし、油で揚げる。大事なポイントは、オイルとバター半々で揚げること。この秘訣は隠しておこうと努力したが、結局のところ私は、厨房においても愛他主義者であった。
すりおろしたレモンの皮を忘れていた。もしこれを加えなかったら、肉団子に何の香りがあるのか。 便利なお知らせを1つ。もし余った子豚の丸焼きがあったら、迷わず加えること。偉大な『子豚の丸焼き入り肉団子』にまつわる楽しい想い出がある。ある私の友人がそれを36個も平らげた。



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